March 30, 2005

嘘の現実

moshimo.jpg

この上に載っているGABA(英会話の会社)の広告で「もしも、わたしが英語を話せたら!?」という質問に対して「本物のBーBOYになる」をはじめ「アメリカで子育て、一人はアーティストに、一人はプログラマーにする」までの夢が叶うような答えがいっぱい書いてある。全部が本当の人の間で行われた調査から取れた引用みたいに見えるが、このブログでコメントを書いた元GABAの人によると、全部が広告会社に書かれたそうである。つまり、フィクションである。

日本では、こういう「嘘の現実」が多い気がし、ワイドショーで現実のはずがあるゲームやセグメントがあっても、物語のような仕舞いが絶対にある。昔、「あいのり」が面白いと思った時期があったが、脚本があるとか皆が俳優とか分かってからもう「騙された!」という気分でとてもイヤになった。

アメリカの「リアッリティ番組」で「創造的」な編集で本当にない話が作られていることが分かるが、脚本があるまで至らない。58年に「クイズ番組スキャンダル」がアメリカで大ニュースになり、クイズ番組に出ていた人が提供していた会社からクイズの正解する答えをもらっていた。一般大衆が大変に怒らせられたから、反虚偽広告法のように「作られた現実」のテレビ番組などが違法になった。

この法律が結構厳しく、今でもアメリカの広告が弁護士のチェックがされずに出るのがあり得ない。キャッチコピーに微妙な「嘘」があっても、訴えられる可能性があるから、会社が何回も弁護士に送ったり書き直したりするべきだ。日本にこういう法律があるか分からないけれども、あっても、訴えられる可能性は非常に低いから、こういう「嘘を抜く」プロセスはないであろうか。

僕が日本人に「この番組が絶対に嘘!」という文句を言っても、「夢がない」などの反応が来る。つまり、日本のメディアでは、現実だと言われても、誰でも現実だと思っていないから、エンターテインメントとして取り扱って、楽しむべきである。僕は、何となく自然に「嘘の現実」に戦いたくなるが、これは個人的な問題だけか分からない。。。

Posted by marxy at March 30, 2005 7:52 PM
Comments

ぼくもマルクシさん(という日本語表記でいいのでしょうか? それともフランクに「デヴィッド」とかの方がいいのかな?)と同じように、日本のテレビや広告に散見せらるる「嘘の現実」に異を唱えたくなります。

そもそも、多くの日本人はテレビや広告といったマスメディアで流れる情報を、無批判に「真実である」と受け取る傾向が強いように思います。

受け手に「嘘を嘘として見抜ける」鑑識眼があれば、このような「虚偽広告」もそれとして楽しめばいい、と思うのですが、これが大方「真実」として受け取られがちであり、製作する代理店側でもこのことを計算済みだ、という点に問題を感じます。

それとも、本当にみんな、「嘘を嘘として楽しんでいる」のでしょうか? とてもぼくにはそう思えないのですが……。

Posted by: はやし at March 30, 2005 9:25 PM

はやしさん、

コメント、ありがとうございます。(マークシー、デーヴィッド、魔悪氏、どれでもいいです。)

過去、日本のメディアが利用する「フレキシブル・リアリティー」を批判した度、「いや、日本人が分かっているよ」と言われました。「現実」と受け取る人が多いでしょうね。深い話になるけれど、嘘と現実を区別できない状況を作るのは政府/資本家/権力者の社会制御の手法の一つじゃないでしょうか。

ちなみに、日本では、虚偽広告に対する法律とかあるでしょうか。あるけれど、弱いですか。

本問にむかつくのは、ファッション雑誌の「性調査」です!いつも男の子が聞きたい答えだけ!)

Posted by: marxy at March 30, 2005 9:44 PM

「いや、日本人は嘘を嘘として見抜けていない!」ということを裏付けるquantativeなデータを持っていないので、ぼくとしても最終的で決定的なことは何も言えないのですが、あくまでこの国で暮らしてきた中で得た実感で言うと、マスメディアの受け手が「嘘を嘘として分かっている」とはとても思えません。少なくとも、それらの「虚偽」を「真実を写すもの」として受け取る傾向は強い、と思います。

それで、デーヴィッドがいうように、このようなメディアによる世論の水路付けという点、まさにその通りだと思いますね。ぼくのブログで今、Guy Debordの『スペクタクルの社会』を1節1節読むという試みをしているのですが(でも、滞り気味……)、「虚偽」であるスペクタクルが、「現実」のこの世界を逆に規定するという図式が見事に書かれています。

ちなみに、虚偽広告に対する法的規制ですが、一応訪問販売法第8条の2で、「著しい」虚偽・誇大広告は禁じられていますが、この「著しさ」というのをどう判断するのか、なかなか難しいところで、ぼくやデーヴィッドがいらだっている「虚偽」というのは現行法の下ではOKということになってしまうと思います。だから、答えとしては「あるけど、弱い」ということですね。

まとめると問題は、なるほど確かに「嘘は嘘」として捉えている(人もいる)のかもしれないが、その「嘘」が逆にわれわれの「現実」を規定するに任せている、ということで、「統治のツール」としてマスメディアを批判的に受け取る視点が日本人には欠けている、ということかもしれません。まあ、「日本人」って大括りに言うと問題なのかもしれませんが(というのも、こう言うと、「いや、おれにはそういう視点は欠けていない!」って言う人が必ずいますからね)。

Posted by: はやし at March 30, 2005 10:30 PM

いい情報をいっぱい頂きまして、ありがとうございます。特にその法律に関してちょっと調べます。

Posted by: marxy at March 31, 2005 11:08 AM

 マークシー。
 ぼくもあのGABAの広告は、かなり気になっていました。
まずひとつには、マークシーが指摘するように、かなり虚偽広告くさい広告だということです。あれはおそらく、日本においてすら、少し問題になるぐらい、まずい手法の広告だと思います。虚偽広告については、JARO「社団法人日本広告審査機構」や「公正取引委員会」の管轄です。これらへ虚偽の可能性がある広告について報告することができます。報告により、検査や取り締まりが実施される可能性もあります。
 JARO「社団法人日本広告審査機構」http://www.jaro.or.jp/http://
 「公正取引委員会」www.jftc.go.jp/
 GABAという企業がどの程度の規模のものかぼくもよく知りません。法的に問題のある虚偽広告を打つほどまぬけではないと思いたいですが、あの手の広告は、たしかにJAROや公正取引委員会に報告して調査してもらう価値はあると思います。

 ところで、虚偽広告の可能性と共に、もう一点、あの広告についてぼくが気になっていたのは、日本人が「英語」に関して抱いている夢想が実によく描き出されているということです。あの広告では、「もしも、わたしが英語を話せたら!?」という条件付きで、日本人のかなえたい夢が列挙されています。すぐに気づくと思いますが、たとえ「上の句」を「もしも、わたしが5億円を持っていたら」という言葉に変えたとしても、ほとんど違和感なく「下の句」として接続できるような「夢」が列挙されています。つまり、それぐらい、「英語さえ話せれば何でもできる」という、そういうものとして、日本人の中では「英語」が位置づけられていると言うことです。これは非常に興味深い現象だと思います。

 また、日本人と虚偽をめぐる考察についてですが、おおざっぱに言って、日本人は嘘が好きだ、と言うことが言えるかも知れません。それゆえ、テレビのバラエティ番組では好んで嘘が生産され、茶の間で消費されています。またドキュメンタリーとバラエティの境界が曖昧なのも特徴かも知れません。ただし、ぼくはテレビ番組については詳しくないのですが、日本のテレビ番組の大半が、そのアイデアをアメリカのテレビ番組から得ているという話しを聞いたことがあります。「あいのり」に相当する番組がアメリカにあるのかどうかは知りませんが、「Surviver」のような番組がある時期から、日本のテレビ番組に影響を与えたという話は聞いたことがあります。
 日本人が「真実」もしくは「現実」に対して、たとえばアメリカ人ほど「倫理的」ethical な感覚が鋭くない、というのはおそらく事実だと思います。別の言い方をすれば、アメリカ人は社会的な「真実」というものが存在すると信じているということになります。そこにはまた、テレビという公共性のある媒体は公正でなくてはならない、という信念も同時にあるでしょう。これに対して、日本人は芸術表現においては楽しい、もしくは美しいという「審美的」aesthetic な感覚が第一であると考えている、と言えるのかも知れません。そして、テレビのバラエティ番組などは、そうした芸術的表現の領域だと見なされているのかもしれません。
 これは簡単に結論が得られる問題ではありませんが、一つ、こういうことは言えるのではないでしょうか。ぼく自身がぼんやりと考えていることです。
 「アメリカ人もしくはアメリカ社会の方が、公共メディアの『公正さ』にたいする倫理的な感覚は鋭い。一方、日本人もしくは日本社会はどちらかというと審美的な感覚の方が優先している。しかし、だからといって、日本、アメリカ共に多くの『嘘』が社会に流通していることに変わりはない。ただ、アメリカでは『嘘』は意識的につかれるだろう。日本では、社会的な『嘘』はしばしば無意識的につかれるものである。なぜなら、それが社会もしくは市民に対する重大な『罪』であるという感覚が、アメリカほどは鋭くないから。」

 ところで、単純に個人的な倫理規範の話しで言うと、大仰で誇張された表現や嘘を抑制する傾向は、日本文化の方が大きいように思います。日常会話の中で平気で「嘘」をつく人は嫌われます。そういう基本道徳に関しては、若い世代でもあまり変化はないようです。しかし、一方で、社会的な「嘘」や「不公正」についてとなると、どうも日本人は甘い傾向があり、これも世代を越えて根強く残る傾向です。
 面と向かって相手に嘘を言うことは忌避されるが、社会的な嘘については歓迎される。これはそもそも日本人が、「社会」というものを「嘘」もしくは「虚構」fiction と見なしていることを示しているのかも知れない。要約すれば、私的な嘘は嫌われるが、公的な嘘は好まれる。
 嘘の倫理性、社会性について考察するにはこうした傾向についても考慮に入れる必要があると思っています。

 すでに先行の研究もあるでしょうから、時間があったら、「嘘」の問題について、基本文献を探してみようと思います。

Ei-ichi

Posted by: Ei-ichi at March 31, 2005 4:17 PM